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真面目に考えてました一日中

こころ、という存在は人間のどこにあるのか。
私は、小指一本、瞬きひとつであったとしても己の体の一部分を動かすことなどで自らの意思を表示することができる、つまり脳が動いているかどうかで人の生死を判断すべきだと考えていた。
肉体が生きていても、「こころ」がなければその人が生きているとは言いがたい。そして、その「こころ」=「脳」だと私は思っている。
今朝の読売新聞に、1歳半ばにして脳死状態に陥った後も体が成長を続け、現在も呼吸器の助けを得つつ肉体は「生きていて」10歳にまでなった子供の記事が掲載されていた。
乳幼児などでは往々にしてこのような事態が起きうるらしい。
その子の母親にしてみれば、「脳死は人の死」ではない。

臓器移植法案は、A案―脳死を人の死とし、臓器提供可能年齢の制限を撤廃する―が可決された。
私もこの案に賛成だったが、家人はD案―死の定義は現行法どおりで、年齢制限撤廃―を支持していた。
これまでは臓器移植を行う場合にのみ認められていた「脳死は人の死」という定義がデフォルトになることで、本人の諾否がわからなくても家族の承諾が得られればその人がドナーになることが可能になる。
単純に考えれば、つまりそれだけ移植される臓器が増えるということだ。
もちろん、脳死と判定されても家族が臓器提供を拒否すれば移植は行われずそのまま保険医療を受け続けることもできるため、前出の子供のようなケースも救済される。
また親族への優先提供も認められるようになる。これは至極もっともなことだと私は思う。

「イスタンブール宣言」以来「金で臓器を買っている」と日本は非難の対象になり、実際最近アメリカの病院で臓器移植を待つ日本人がデポジットとして4億円もの大金を払うよう要求された例もあると聞く。
確かにアメリカにだって移植を待つ子供はいるわけで、その人たちを納得させる(?)ためにもその程度の差別化は必要なのだろう。
でもその高額な請求が当たり前になってしまう、あるいはそもそも外国からの患者への臓器移植を全面禁止とされてしまえば日本国内の臓器移植を必要としている患者は日本国内で治療せざるを得ない。でも、15歳未満の子供にはそもそも提供者がいない。
この矛盾を解決するにはA案かD案しかないだろう。

ただ、実際に脳死状態で「肉体は生きている」子供たちの親にしてみればこの法案可決はどれほどショックだったことか。
脳死=死、ならわが子は既に生きてはいない、ということになるのだから。
また、言い方はよくないが、移植を待つ小さなわが子を抱える親にしてみれば「そこに臓器があるのに」…そう考えてしまう瞬間が果たしてないと断言できるか。
私は同じ立場になったら、そういう気持ちを持たずにいられるかどうか自信がない。
法は法。でも人の気持ちまでは縛ることはできないということ。だからこそこの法案が通った時に起こること、を想像してしまう。
それでも、臓器移植さえ可能なら、健康になり、成長を遂げてこれからの人生を謳歌できる子供たちがいるという現実を目の当たりにしてこの法案が可決されないなんてことはあってはならないとも思うのだ。

今日はリュージュワッフルを焼いた。
発酵バターに替えたらやはり味が違う。冷めても美味。
生まれてからずっとベッドに縛り付けられ、食事も制限されたら母親の手料理すら口にできない。もちろん焼きたてのワッフルの味だって知らないままで人生を終えてしまうなんて…

今日の国会は見ていて久々に厳粛な気分になった。
投票する議員の表情がいつになく真摯で、真剣に自問自答して己が一票を投じようとしている姿勢が見えた…ような気がしたから。
実際、各党内でも意見は分かれていたし。

衆院ではA案が可決されたけれど、参院は与野党が逆転しているのでこの法案がこのままスムーズに通るかどうかはわからないそうだ。
少しでも早く法整備がなされて、一日千秋の気持ちで移植を待っている幼い子供たちとその親が笑顔を取り戻せることを願うばかり。

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