帰宅しました。待っていたのは仕事と猫(だけ?)
久々の東京は暑かった。正確には東京ではないけれど。
用事は卒業した中学校をとある理由で訪ねること。
ということで日曜日の朝、ン十年前に通った懐かしい道を歩いてみた。そして驚いた。
記憶の中にあった風景が、現実のものとは全く違っていたのだ。
家が増えた。それも小綺麗な。
その当時は狭い道の両サイドに建つ家なんか大して気にもとめていなかったはずだが、見るからに築後まもない家々。しかも何故か空き地ができていた。あの場所、そもそも何があったっけ?結構地価が高い場所なのに、何故空き地??
途中にあったはずの神社は思っていた通りの場所に存在していた。でもたたずまいは思っていたものと全く違う。
もっと小さくて、人もいないようなそんな神社だったはずなのに・・・
実は、こっそり悪友たちとたばこなんかを吸ってみたのも(もう時効でしょ?)この神社だった。
そのときのたばこの味とか友達との会話はうろ覚えながら記憶にあるのに、肝心の神社は社殿の向きすら違うのだ。建て替えた?いや、まさか。
暑さと戸惑いの中辿りついた母校で、恐らく10年以上会っていなかった部活の大先輩たちと再会。
こっちこっち、と手招いてくれた6歳年上の先輩を見て絶句する。
2枚目とは行かないまでも、そこそこステキな人だったのに・・・否、他人のことは言えない。こっちだってウェイトがかなり増えているし、顔だって歳相応だし。でも、ごめんなさい。ドラえもんのような腹回りに萎えました。
同じ年次に卒業した同期生は1人しかいなかったけれど、共通の知人の話などもいろいろ話せて、非常に有意義な時間ではあった。
それにしても、だ。
イイ歳した大の大人が「○○先輩」なんて話しかけるのはどうにも照れくさい。
何人かの先輩方と共に昼食を食べたが、当たり前のように奢っていただいた。お財布を出した私に向かって一言「先輩が後輩に奢るのが当たり前」―うわ、久々に聞いた台詞。この年でそんな風に言われるなんて・・・
いろいろな意味で新鮮な気持ちになれた1日だった。悪くないな、こういうのも。
帰路、某身内に空港まで送ってもらう。
道すがら雑談をしつつ、ふと思った。
今回のように家族4人で一緒にいられる時間って、あとどれくらいあるのだろうか、と。
母ともそんな話をしたのだが、子供は親の老いをなかなか認識できないものだ。いつまでも親は生きていると思っている。思い込んでいる。
いや、いずれその日は来る、と頭ではわかっているつもりになっていても多分、心のどこかでそれを理解はできずにいるのだ。
皺が増え、小さくなりつつある母の姿は、離れて暮らしていれば点の時間でしか接していないから変化をより大きく感じ取れてしまう。
大事にしてあげたい、と思いつつ、日々の暮らしの中でついついその気持ちを忘れちゃうんだよなあ。
とりあえず今年の誕生日、何かイイモノをプレゼントしよう。おーい、某身内嬢。頑張って考えようね。
ちなみに、母校での用事は今後も継続して行われるのだが次回は8月。
恐らく道産子の耐久温度をというか滞在許容範囲温度(何だそりゃ)を超えていると思われるためパスする方向で考えております。だって溶けるし(くどい)
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