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「ハンナ・アーレント」観てきました

久々に家人と一緒に映画を見てきた。
既に札幌での単館上映は終わっていたのでわざわざ脚を伸ばしての鑑賞は吉と出たか凶と出たか・・・結果は行ってよかった。正解でした。

面白かったのは見終えてからの二人の感想。

(以下、ネタバレ箇所多数なので、興味を持たれた方は続きを読む、からどうぞ)

2時間程度の映画が全く長いとは感じられなかった。むしろ端折っている部分が多く、これは原作を読まなければ、と思った。
でも、その物議をかもしたアイヒマン裁判の傍聴記録を書籍化した「イェルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告」、家人に頼まれてオンラインで購入したが・・・難しそうなんだよなあ。
家人が読了したら借りようと思っているが、今のところいつになるかわからない、とのこと。彼にとっても難しい本ではあるそうだ。

ちなみにDVDは今夏発売予定。早速予約したが・・・本音を言えば、もう一度観たい、と思うような映画ではなかったかな。家人は楽しみにしているそうだが。
だってあまりに重すぎるし、あそこまでハンナを排斥し誹り罵るユダヤ人には憤りすら覚えるし、ある意味私が一番忌み嫌う「理不尽」ですらある。
取りあえず彼女のことを綴った本を2冊、DVD予約のついでに購入した。明日には届くだろうからじっくり読んでみようと思う。

・・・やっぱりキーボードが欲しい。明日イオンで見てきます。
スマホユーザーってよくあのちっこい画面でメールとか打てるなあ。感心しちゃう。

あの映画のもっとも重要なシーンであるとも言える10分弱のハンナの講義。
拍手を送りながら、我が意を得たりとばかりに頷き称賛の眼差しを送る女子学生が私のその時の心情にもっとも近かった。

あの講義―というよりスピーチ―で降りかかってきた全ての非難や中傷、批判を払しょくできた、カタルシスだ、と心の中で快哉を叫んだ私。

だが、家人はそうではなかった。

講義の後、ハンナと共に学生時代を過ごしてきた「親友」は見事に彼女の講義を、否彼女自身をも否定したのだ。
恐らくあの二人は決定的に決裂し、二度と交わることはないだろう。
そして、そんな親友の心情こそを家人はハンナのそれよりも理解できたのだと言う。これには驚かされた。

侵略、虐殺、という歴史を持たない(沖縄の地上戦、広島・長崎は別として)私たち日本人にユダヤ人の味わった深い絶望感や怒りの感情を理解せよと言われても正直に言って無理だと思う。
ただ、家人はこのジェノサイドがあった時代のドイツに興味があり、関連の書籍や映画をかなりの数手にしている。
一方私はと言えば、アンネの日記を読み、ドラマ「ホロ・コースト」を見たくらい。同調の度合いや理解の深さは明らかに違う。
それでも映画を見たほとんどの日本人は女子学生派だと思いますが・・・どうだろう。

映画には実際の裁判の映像がインサートされているから、冒頭、ブエノスアイレスで帰宅途中に拉致されるアイヒマン役の俳優はまともに顔が出てこない。
映像の中のアイヒマンは神経質そうな雰囲気で、どんな審理がなされるにせよ結果は見えているからなのかそれとも単純に罪の意識を持っていないのか、淡々と置かれた立場に忠実に振る舞ったというスタンスを主張する。
全ては命令において行われたことである、と。

そんな彼を見てハンナが次第に疑問を抱き始める過程はよく理解できる。
「思考」を止めてしまうことで平凡な、凡庸なそれこそどこにでもいる一市民でしかなかった男が大量殺戮を行う立場に立つ。
そして命じられるままにユダヤ人収容者をガス室へ送り込む。彼は「思考」することを辞め、命令に基づき淡々と働く。そこにユダヤ人への悪意が明確にあったと言えるのかどうか。

アイヒマンは根っからの悪人ではない。希代の殺戮者ではない。反ユダヤでさえないかもしれない。そう論じたことでハンナは親ナチ、アイヒマン擁護、というレッテルを貼られてしまう。
更に、若き日、学生と教授としてであったハイデッガーと不倫関係に陥るも、その後彼がナチスとの間で「何等かの働き」をしていたことを知り、それを暴露した。
具体的にその働きの内容は書かないし、書けない。だからこそ揣摩臆測の範疇にあると思われ、内部協力者=同胞を売った者が存在すると主張することはユダヤ人への裏切り行為だと責められる一因になって、更に彼女は誹謗中傷の類を一身に受けることになる。

イスラエルのモサドから警告を受けても動じなかった彼女だが、家族同様に付き合ってきた男性から、お前は民族を愛していない、とそしられ、それに対して、私が愛しているのは民族ではない。友人だ、と。つまりその人個人を愛しているのだ、と応える。

結局その言葉は彼には届かなかった。そして、親友からもあの講義の後、最後通牒を突き付けられてしまう。その時の表情の哀しさときたら。
そして講義の後の、かつての親友の最後通牒。

かつて気の置けないユダヤの友人たちがよく集まっていた家には、もはや誰一人訪れなくなった。
あれほど愛していた友人たちを相次いで失った彼女には、それでも後悔はなかった・・・のか?

裁判の傍聴記録を雑誌に掲載したのちの描写は見ていて胸苦しささえ覚えるものだった。
ハンナは平気の体を装っていたのか、それとも本当にあれほどまでの拒絶反応を受けることは想定していなかったのかはわからない。
それでも彼女を支えた夫、秘書、そして親友(日本版がもし製作されるとしたら間違いなく高畑淳子さんがハマる)がいたからどれほど救われただろう、ハンナだけでなく視ている側も。

講義シーンに話を戻すと。
その講義の直前、彼女に辞職を促した大学の職員(もしくは教授?)たち3人は、満座の学生達と共に彼女の講義を傍聴、途中手厳しい質問(半ば糾弾)を挟むが結局論破され、恐らく辞職要求は撤回されたと思われる。

多分この3人はユダヤ人ではないだろう。
今はわからないが、少なくともあの当時のユダヤ人が持つ同胞意識はさながら一枚岩だ。どこをつついても綻びは見られない。
では何故、自らもユダヤ人に生まれ、収容所に送られた経験を持ちながらハンナは冷静に客観的にアイヒマン裁判を傍聴することができたのか。

彼女の経験が良くも悪くも雄弁だったことは言うまでもない。それがなければあの傍聴記録はあれほどセンセーショナルに扱われることはなかっただろう。
モサドも彼女にできたのはせいぜいが脅すこと、くらいだった。だって同胞だから。

ハイデッガーとの不倫、そしてその教授としても男性としても慕っていた彼の裏切り。それが彼女を強い同胞意識から遠ざけた。そう思ってしまうのはあまりに陳腐かな。
いろいろな意味でハンナのことをもっと知りたい。早く本来ないかな。
「思考」というキーワードでもっといろいろな彼女の真実を読み解けるのではないかと期待している。

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