ドラマの感想なんぞを。
日系イギリス人のカズオ・イシグロ氏の著書が原作のドラマ「わたしを離さないで」
原作読了後、あまりのやりきれなさに気持ちがしばらく落ちきってしまった身としては、見たら更に落ちるだろうことは承知のうえで毎週録画し、時間のある時に視ている。
題材は、というかシチュエイションは非常に重い。ある意味私の最も忌み嫌う「不条理」モノである。
自分たちの「存在する意味」を知り、待ち受ける運命を知りながら生きている主人公たち。
・・・とんでもないネタバレになるとわかっていてもこれは書かないと先に進まないので・・・
彼らは臓器移植用に作り出されたクローン。そもそも人として法で守られてすらいない存在。
求められて臓器を提供するか、その前に提供者の介護を行う介護人を経るかしか、生き方を持たない。
彼らは遺伝子を操作されて生殖機能を失っている。残酷だ。でも、逆に言えば避妊の必要がない。だから性に対して奔放であり、これも逆に言えばそれ以上の娯楽や快楽を得ることが難しいからなのかもしれないが。
ドラマは、主人公恭子(原作はキャシー。綾瀬はるかが演じている、以下同)のモノローグで始まる。現在から過去を回想する形で物語は進んでいくのだが、彼女の語り口は常に絶望感に満たされていて、それはつまり「原作どおりの結末を迎える」と解していいのだろう。
彼女の親友(と周囲からは見られている)美和(ルース、水川あさみ)、そして恭子が好意を抱きながらもそれを察した美和に半ば略奪される形で彼女と交際することになる友彦(トミー、三浦春馬)との関係を軸に、彼らを取り巻く人間模様を描いた、現在までは一風変わった青春群像劇になっているのだが、次週の放送で第一幕が終わるとのこと。
そこから3人はそれぞれに別の人生―行き先は同じだけど―を歩むことになる。
一縷の望みを信じ、裏切られ、最後に迎えるものは・・・
第一話の冒頭で、用途を終えたいわば同胞を自ら荼毘に付す(焼却炉?に入れる)恭子の様子が描かれ、多分原作や映画、舞台などでストーリーを知らずにドラマを見た人は何もわからないままショッキングな映像に不快感を覚えたかもしれない。とにかく、多くの人が明日は休みで、多少夜更かしもしたいから、とチャンネルを合わせる金曜の午後10時にはあまりに重過ぎる内容では?というのが私の抱く危惧。
実際視聴率はあまり高くないらしい。あれだけのキャストと脚本家を押えたというのに。
イシグロ氏によれば、テーマとして臓器移植やクローンに関する倫理観を描きたかったのではなく、「あくまでも普遍的な人間のありようの残酷さに対抗する本質的なラブストーリーだと思っている」とのこと。
いや、仰りたいことはわからないでもないけれど、この設定はある意味SFでもあり、スリラーとも言えるかもしれない。これをラブストーリーと読み取るにはあまりにフィルターが細かすぎる。たどり着けない。
なべて必ず人は死ぬわけで、その理由も時期も、ほとんどの人が知らないままに今を生きている。
でもクローンとして臓器提供のためにだけ生を受けた彼らは時期こそ正確にはわからないまでもほぼ全てが同じ理由で命を失うことが決まっている。
そこで自暴自棄になって日々を無為に過ごすか、限られた時間を何か、に傾けて精一杯生きようとするか・・・個人差(個体差)はあるだろう。
その中でもたらされたとある伝説。それを立証したく動くヒロインたち。そしてそれが全くの誤りだと知らされたときの絶望感。
ドラマが原作に忠実に進行するとしたら最後に訪れる通知よりも、恭子はその絶望感であの虚無的なモノローグをつぶやくのだと思う。
今、自分が置かれている現実と相俟って、視たら必ず鬱々とした気分になるだろうとは思っていた。でも視ずにはいられなかった。そして予想通り今、完全に落ちている。
気休め程度のお薬は気休めにしかならないのだ。
とりあえず録画だけしておいて、万が一にも状況が好転したら、気持ちに余裕ができたらまとめて視ようかな、と今考えている。これ以上気が滅入る要素を自分に与えたくないから。
ああ、何だかもう全て投げ出していっそボツワナにでも行きたい・・・ってまだ先輩はあちらにいらっしゃるのだろうか。ただのメシ友がいきなり訪ねていったらびっくりするだろうな・・・
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント